古今宗教研究所 > 開設の趣旨


補足1.現代日本の宗教事情に思うこと

現代の日本においては、宗教というと、漠然としたマイナスイメージがつきまとっているように思われます。

もちろん、特に伝統宗教に対しては相応の敬意が払われています。自分を見つめ直すために巡礼をしたり、宗教書を読んだり写経をしたりという人も増えているようです。
しかし、何々教の信者になったとか、どこそこに熱心に通っているということになると、とたんに色眼鏡をかけてみるようになる人が多いことは間違いありません。宗教が生活の中心になることに対して、過剰に警戒する風潮があります。

こういう風潮が、90年代以降、統一教会やオウム真理教、法の華三法行といった教団が世間を騒がしてから特に強くなったことは事実ですが、基本的にはそれ以前からあったように思われます。

その原因としては、一つには明治以降の近代的合理主義に基づく教育やマスコミの影響ということがあります。
特に戦後、公教育において宗教に関する教育がまったく為されていないことは深刻な問題です。

しかし、より大きな原因が宗教に関わる側にあることは間違いありません。

部外者にとって、ある信仰を熱心に始めたという人と話そうとすると、普通の話が通じなくなるように感じることがあります。また、行動の基準が一般の人とは変わってしまいます。

もちろん、それがよい結果をもたらしているのであれば、たとえ一時的に白い目で見られたとしても、結果的には認められ、かえって重んじられるようになります。そして実際、世の中にはそういう人も少なからずいます。

しかし、周囲と違うことをして、それを見せたり感じさせたりするわけですから、人並み以上にならなければ周囲は評価しません。人並みでは人並み以下に見られるわけです。

まして、信仰を熱心にしていい結果になるどころか、家庭はメチャクチャ、仕事もおざなり、人格的にも偏ってきたとか、余裕がなくなったとか、暗くなったとか、それでも本人は何か一生懸命やっているなどということも少なくありません。

しかも、こういう人たちほど、あからさまに熱心に活動しますし、悪い噂ほど広がりますから、世間的にはよく目立ちます。逆に、本当によい結果をもたらしている人というのは、あまり信仰について過剰な宣伝をしない例が多いので、なかなか目立ちません。

また、話が通じなくなるという点に関して、宗教に携わる人というのは、たいていの場合、自分たちの土俵でしか話をしなくなります。自分たちのルールに引き込んで、自分たちの枠内で処理できることだけを取り扱おうとします。
ひどい場合には、自分たちのルールに従おうとしなければ、それが悪であるかのように言うことさえあります。

その中で生きているぶんには世界のすべてを理解しているかのような思いになれるのですが、人間的な能力は確実に退化していきます。そのため、ますます自分たちの世界に引き籠もるようになってしまうことが少なくありません。

また、その土俵の中に入っていない人にしてみれば、どうも話が合わないということになったりするわけです。そして、結局宗教というのは自分には関係がない、あるいは自分には必要がないものだと思っている人が結構いるように思います。

ですから、例えば瀬戸内寂聴師などのように、宗教宗派という枠に閉じこもった言葉ではなく、一般の人に伝わる言葉で語れば多くの人が集まるわけです。もちろん、そういう宗教者も少なくありませんが、全体から見れば少数です。

さらに、社会的に定着した教団(伝統宗教など)において、現実的価値観に妥協してしまい、宗教としての生命を失っているということも少なくありません。近代的合理主義を基本とする価値観に妥協し、世間的倫理道徳や処世訓の先生、あるいは社会運動家になってしまっている宗教者が少なくないように思います。

社会運動家になって、国家権力に対峙していると自負している宗教者においては、現実的価値観に妥協しているなどといわれると心外かも知れません。しかし、かつて自らの教義の一部をクローズアップすることによって国策に協力したように、別な一部をクローズアップして反体制を唱えているに過ぎません。要はベクトルが違うだけのことでで、次元は変わりません。

そして、いくら宗教用語を看板に掲げたところで、結論とそこに至る過程が一般的な価値観と思考法によっているため、毛色の変わった社会運動家以上のものにはならないわけです。
それに、基本が一般的な価値観と変わらないため、抵抗なく納得させることはできても、根本的な問題の解決につながる新しい視点を提示することは困難です。

その他、宗教側の問題は非常に多いのですが、それらの問題の原因を考える上で非常に重要なことは、本来宗教は自我をコントロールするはずのものであるにもかかわらず、自我を肥大させる道具になっていることが多いということです。

いかなる宗教であれ、それによってよい結果を得ようとすれば、意識的にであれ、無意識的にであれ、自我を抑え、コントロールする方向に行かざるをえません。そして、いわゆる高等宗教はそのことを明確に打ち出しています。

にも関わらず、その宗教自体の価値が自分の価値と結びつき、いつの間にか宗教が自が肥大の道具になってしまっていることが少なくありません。

唯心円成会の無能唱元氏は人間の五大本能の一つに「自己重要感」を挙げ、これを極めて重視しています。宗教という古くからの権威があり、しかもかなり主観的な要素が多い世界は、自己重要感を高める手段として非常に手っ取り早く、しかも有効なものであるのです。

特に目に見えない「神」や「霊界」などは、手っ取り早く自己に権威を与える道具になりうるものです。意識的・無意識的にこれを利用し、人を支配しようという欲求を満たしている人が少なからず存在し、それがまた宗教に対する警戒心を高めています(ただし、当然ですが、神や霊界を否定するというわけではありません。私自身はこういったものについて肯定的です)。

さらに、宗教が自己重要感を満たす手段になると、当然ながら自らの信じる宗教と他宗教を比較するようになります。もちろん、客観的に比較しようというのではなく、自分たちの宗教が優れていることを証明するために比較するわけです。

特に滑稽なのは、自分たちの信仰だけが特別かつ絶対であり、唯一救いに到ることができるなどと考えている人たちです。こういった教えを信じている人で、本当に救われている人というのは見たことがありません。

あるいは「純粋」にこだわる人々にも困ったものです。宗教というのは、必ず他宗教からの影響を受けて発展しているものですが、そういったことを「不純」と考え、混じり気のない純粋な信仰を誇るわけですが、実はその純粋な信仰なるものも、所詮は自分が「純粋」と考えているものでしかないわけです。

「絶対的信仰」を掲げ、他宗教を排斥する人々も同様です。絶対的信仰などというものは内面的なものであって、他宗教を意識した時点で絶対ではなくなっているからです。

これらはすべて、宗教が自己重要感を満たすための手段になっているために起こる問題といえるでしょう。

マザー・テレサは言っています。

神はただ一人、そしてすべての神です。ですから、すべての人が神の前では平等だということは、とても重要なのです。私はつねづね、ヒンドゥー教徒はよりよいヒンドゥー教徒に、イスラム教徒はよりよいイスラム教徒に、カトリック教徒はよりよいカトリック教徒になるようにするべきである、と言ってきました。

(『マザー・テレサ語る』猪熊弘子訳・早川書房)

マザー・テレサ自身は妥協のないクリスチャンです。しかし、それは自分の(あるいは自分たちの)生き方に関わるものであって、他人と比較するものではありません。それこそが本当に「純粋」で「絶対的」な信仰であり、救いに到る道であるといえるでしょう。

世の中には、「信仰していること」「信じる宗教を持っていること」が自分に価値を与えてくれているように錯覚している「信仰者」が少なくありません(例えば、外国では無宗教などというと真っ当な人間とは見なされない、などといって)。
しかし、本当の問題は、信仰をしているかどうか(これは、しばしば教団に所属していることと同一視されるのですが)ではなく、それによってどのような生き方をしているかというところにあることは間違いありません。むしろ、それによって「信仰」が評価されるわけです。

こういった観点に立ち、信心しているものが信心の価値を発揮したときにこそ、初めて宗教に対するマイナス・イメージを払拭できるだろうと思うのです。

もどる


2004.12.08
古今宗教研究所
Copyright(C) 1998-2018 Murakami Tetsuki. All rights reserved.