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信心に関わる諸問題

布施について(7)


無畏施

法(真理)を施す「法施」、財(金品)を施す「財施」に「無畏施〔むいせ〕」を加えて「三施」すなわち三種類の布施といいます。

「無畏施」とは、人から不安や恐怖を取り除き、恐れのない状態にすることです。中村元博士の『仏教語大辞典』(東京書籍)を見ると、「無畏を人に施すこと。人の厄難を救うこと。おそれなき状態を与えること。一切衆生に恐怖の念をなからしめること。獅子・虎狼・怨賊・水火などから人を救って恐れることのなからしめること」とあります。

私はこれまで宗教と関わってきた中で、社会の中における宗教者(あるいは教団)の役割、あるいは(特に大乗仏教の)他者との関わりにおける宗教的実践ということを考えるときに、最も重要なのがこの「無畏施」ではないかと思うようになりました。

しかし、私の見る限りにおいて、「法施」「財施」に比べて「無畏施」はあまり重視されていないような気がします。ネット上で「無畏施」を検索しても、「法施」「財施」に比較すると、あまり詳しくは説かれていません。

思うに、これは「法施」「財施」に比べて「無畏施」というものの具体的なイメージがつかみにくいからではないでしょうか。ネット上を検索しても、なかなか腑に落ちる説明を見ることができません。

そのような中で、「施無畏者〔せむいしゃ〕」と呼ばれる観世音菩薩を引いて説明されているのが、仏教の深い内容を簡明・平易に説かれる故・佐藤俊明老師(曹洞宗)です。内容から見て保険関係の人たちにされた法話だと思いますが、さすがに見事なまとめ方です。(佐藤俊明のちょっといい話 第七話「保険と観音様」

佐藤師は、この内容を『禅の話』(現代教養文庫・絶版)のなかで、さらにわかりやすく説いておられますので、これを引用します。

金のあるものは金のないものにこれをわかち与え、力のあるものは、力のないものに力を貸してやり、ほほえみを失ったものにはほほえみを、やわらぎを失ったものにはやわらぎを、道理に明るいものは道理に暗いものを導き、それにより人生に安心を与え、人々の心から不安や恐怖を取り除いてやる。それが無畏施である。観音様のことを一命「施無畏者」(無畏を施すもの)という。観音様は三十三身を現じ、すべてのものに無畏の安らぎを与えてくれるからである。私どもが真に福祉社会を実現するには、私どもがまず施無畏者にならなくてはならない。

無畏施については以上で十分という内容ですが、私なりにもう少し検討してみたいと思います。

「無畏」という言葉を調べてみると、「恐怖しないこと。おそれのないこと。安穏で怖畏の全くない状態。勇気。おそれずやろうという強い心」とあります(『仏教語大辞典』)。つまり、このような状態にしてあげることが「無畏施」ということです。

ここで注目したいのが、「勇気。おそれずやろうという強い心」というところです。言い換えれば、単に不安をなくすというだけではなく、前向きな気持ちを持つということになるでしょうか。これこそが宗教(信心)において、最も肝心なところだと思うわけです。

人間、前向きな気持ちさえ失わなければ、何とかなるものです。不思議と智慧や力が湧いてきたり、事態が思いもよらない展開をしたり、導きを得たりして、もうどうしようもないというようなところを切り抜けるというのは、決して珍しいことではありません。

また、前向きな気持ちが体によい影響を及ぼすことは、今や周知の事実です。

もちろん、どんなに前向きな気持ちを持っていたところでダメなときはダメですし、死ぬときは死にます。しかし、たとえそうであったとしても、自分にとっても、周囲にとってもよりよい何かを残すことができます。結果的に、それがかえってよかったということも、よくあることです。

ですから、宗教団体あるいは宗教者の所には多くの人が救いを求めて集まりますが、極端な話、「無畏」を与えることができれば、あとは本人が何らかの結果を出すとさえ言えます。

無畏施とは、本人の自己治癒力、自己解決能力を引き出すことだと言い換えてもいいでしょう。

自分で前向きに歩き出すのでなければ、本当に問題が解決したとは言えません。また、自分が前向きに取り組むようになれば、現実的に問題が解決していなくても何とかなる者です。「勇気。おそれずやろうという強い心」ということが重要であるゆえんです。

次に「無畏施」と「法施」を比較してみましょう。

「法施」すなわち正しい法を説くといっても、聞く側が受け入れる状態になければ、何の役にも立たないわけです。経済的問題であれ、人間関係の問題であれ、その他の問題であれ、自分の悩みにドップリ浸かっている人に、いくら適切なアドバイスをしたところで、あまり効果はありません。

まず、人の話を聞いてみようかと思える状態にまで引き上げる必要があるわけです。

そして、正しい教えを説くことと、人の心を引き上げることとを比較すると、後者のほうがはるかに難しいものです。悩み込んでいる人を相手にした時ほど、理論理屈の無力さを思い知らされることはありません(その一生懸命さに相手の心が動かされるということもありますが…)。

つまり、法施だけでは衆生救済は不可能で、それ以前に無畏施の実践が必要不可欠だと言うことになります。つまり、自己救済のみを目的にするのならともかく、衆生救済を考えるのであれば、法施以上に無畏施が大切だと考えられます。

また、とかく「無畏」というと、言葉(教え)によって自分のとらわれや迷いに気づかせ、不安や恐怖を取り除くということを想定しがちのような印象があります。

しかし、言葉だけで迷いを除き、不安や恐怖をなくす、「勇気。おそれずやろうという強い心」を持たせるというのは、現実的には極めて困難です。実際に障害を取り除くとか、こちらの必死さに心が動くというようなことのほうが有効な場合が多いものです。

当然、お札やお守り、ご祈祷といったものも極めて有効です。それら自体にも効果があるだろうということは経験上確信していますが(ただし当然、それは本当に効果のあるものと、ないものがあるということにもなります)、本人の信じる気持ちが効果をもたらすという要素もあるので、たとえ偽物でも有効な道具立てとなるわけです(また、それがきっかけで本物の力が発揮されるようになることさえあるようです)。

私は教団に所属していたときも広報関係の仕事に従事していたので、あまり信者さんと接した経験はありませんでした。それでも、時には信者さんの相談を受けることがありました。
そういう時、私も一生懸命、相手の話を聞き、いろいろな教えの話やアドバイスをするのですが、世間知らずの上に理屈っぽい私の話など、あまり役には立っていなかったようです。ところが、よくわからないけど一生懸命話してくれるからとか、私にとっては意味のないような一言が心に響いたとか、こちらの思惑とは別のところで勇気づけられ、自分で問題を解決していったりするのでした。

あるいは家賃の支払いができなくて督促がかかり、裁判所に行かなければならないのだけど、その勇気がないという信者さんがいました。この時などは、一緒に裁判所に着いていってあげることで、あっさりと解決しました。

普通の人から見ればごく些細な問題なのですが、本人にとっては深刻な問題です。どれほど「心配することはない」と言っても、効果はありません。むしろ、こちらが簡単な行動を一つ起こすことで、相手の不安や恐怖がなくなるわけです。

また、それによって、本人も自分の中の無駄なこだわりやとらわれに気づき、そこから教えの内容がわかってくるという効果もありました。

宗教(特に仏教などの場合)の哲学的な側面に関心を持つ人は、説く教えの正しさが宗教の価値のように考える傾向があるように思われるのですが、現実は違います。経験の少ない私でも痛感していることで、信者を相手に奮闘している宗教者は日々実感されていることなのでしょう。

そういう宗教のあり方を低レベルと思っている人がいますが、そういう人は宗教についても人間についてもよくわかっていないのだと思います。

「施無畏者」と呼ばれる観世音菩薩が三十三の姿を取って衆生を救済するように、無畏施というのは精神的・現実的あらゆる方便を用いて実践されるものだと思われます。佐藤俊明先生が明快に説かれているように、無畏施とは観音行と言い換えることができるでしょう。

宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』には、無畏施が端的に描かれています。

アラユルコトヲ
ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
ヨクミキヽシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病氣ノコドモアレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ(以下略)

つまり肉体も精神も惜しみなく施すということで、これを本当に徹底して実践しようとすれば、自分の生活など顧みる余裕のないことは確実です。伝教大師のいう「忘己利他」の精神に立たなければ不可能でしょう。仕事や家庭を持った一般在家の人間には極めて難しいことです。

それでも、生活の場面場面では、そうと意識しないで無畏施を実践していることも少なくないのではないでしょうか。見返りを求めないで困っている人を助けようとするのは、立派な無畏施=観音行だと思います。

菩薩とは大乗仏教徒の理想像ですが、観世音菩薩に祈るときは、ただ自分の救いを祈るだけではなく、観音様の働きができるような自分になることをも祈るべきです。

一人ひとりのできることは限界があっても、そういう輪が広がれば、それぞれの能力を生かすことによって、立派な観音様が顕現するでしょう。宗教団体がそのような意識を持てば、世間から批判されることもなくなるはずです。

最後に一点、「無畏施」は正しい宗教と誤った宗教を見分ける重要な基準ともなります。

世の中の教団や宗教家の中には、無畏施どころか、人の不安や恐怖をあおるものがすくなからずあります。そのほうが人を引きつけ、縛り付けることが容易だからです。

「無畏」すなわち不安や恐怖のない人は、ことさらに宗教に依存する必要はなくなりますし、ましてや他人のコントロールを受けることなどは望みません。

ですから、本当の無畏施の実践者(本物の宗教者というべき人)は、人の不安や恐怖を引き出すような言動を徹底して避けます。また、来るもの拒まず、去る者追わずで、自分に依存させようともしません。むしろ自立させようとします。

もし、「この信仰をしなければ不幸になる」などと感じているならば、その教えは無畏施とは縁遠いものです。早々に離れたほうが賢明でしょう。

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2005.01.31
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