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信心に関わる諸問題

布施について(5)−2


布施の強制(中)

そこで、この布施の強制や強要という問題について考える際には、以下のようなことを充分に踏まえておく必要があると思うのです。

まず、財施によって善い結果があるのは、財施するという行為、あるいは財施の内容(金額など)によるのではなく、財施をすることによって、自分自身の執着が抑えられる、あるいは執着の一部がなくなることによるということです。

ですから、法外な財施ではなくても、これまで宗教的なことに布施するなどということを考えたこともなかった人が、たとえわずかな金額なりとも布施すると、思いもよらない結果が起こるということもあり得るわけです。

実際、こんな例があります。

かつて私が所属していた教団において、青年達が家庭訪問をして、読経をしたり護摩木による供養や祈願を勧めたりするという行がありました。

あるメンバーが、他宗教を排撃することで知られるS会で20年以上熱心に信仰しているという女性の家庭を訪れました。
その女性は、S会に入信して以来、一切、他の宗教を拒絶してきたそうなのですが、どういう気持ちの動きがあったのか、1万円の護摩木で祈願をすることになりました。そうしたところが、長年苦しんでいたリウマチが治ったというのです。

当然ながら、早速このことは全国の幹部会議で報告され、護摩木の功徳はすごいと幹部連は大喜びでした。

しかし、これは本当に護摩木の祈願による功徳だけによるものだったのでしょうか。

もし、護摩木の功徳だけによるものだとすれば、普段から大量に祈願をしている信者の問題がすべて解決していてもよさそうなものですが、そういうことはありません。

むしろ、20年間、他の信仰を拒絶して頑なになっていた女性の心が、1万円を出して護摩木を書くことによって解放され、心のこわばりが溶けることによって、リウマチもよくなったと考える方が自然でしょう(リウマチは精神状態の影響が大きいといわれます)。
つまり、この場合は金銭に対する執着ではありませんが、信仰に対する執着がなくなることにより、よい結果をもたらしたと考えられるわけです。

ですから、普段から護摩木を書くことに抵抗がない、むしろ護摩木を書くことに執着を抱いている信者よりも華々しい御利益をいただいても不思議はないということになります(無論、だからといって護摩木が無意味だと言っているわけではありません)。

ここのところを間違えて、財施をすること、あるいはその内容に意味があると思いこむと大変なことになります。

望む結果が出ないことに対して、財施が足りないと思いこんでさらなる財施をしたり、それを要求したりする例をよく見聞しますが、これなど典型的な例です。

あるいは「財施をすれば問題が解決する」「いい結果になる」などと言うのも同様です。財施をしても、当人の心が変わらなければ、事態が好転することなどあり得ません。まして、無理に財施をさせて、かえって捧げたお金に執着を増してしまったり、恨みを持つようになったりすると、まず間違いなく事態は悪化します。

それに、事態が好転するといっても、必ずしも財施をした当人が期待していたような形になるとは限りません。むしろ、違った形であることのほうが多いものです。時間的経過が必要であることも少なくありません。
ところが「問題が解決する」「いい結果になる」などというと、財施の対価として自分の望む結果を期待することになりますから、トラブルが生じる原因となる可能性が高くなります。せっかく事態が好転しても、それと気づかなかったり、期待はずれだと感じることも少なくありません。

少なくとも、財施をさせる側はそのことをよく心得ておく必要があります。

第2に、布施の強制・強要は、直後はよくても、後々問題になる可能性があるということです。

普通の人は、善かったことは忘れがち、あるいは当たり前のことと思うようになりがちです。

そして、現実に生活していく上で、やはりお金は必要不可欠です。経済的に大変なときというのは、よほど悟った人でもない限り、いろいろなことを考えるものです。その上、人間は自分の責任より他人の責任に目が向きやすいものです。

そのため、無理をして財施をした直後は善かったと思っていても、経済的に大変になったりすると、つい捧げたお金のことを思い出すわけです。それがまったく自発的なものであれば別ですが、強制や強要があると、記憶の中でその部分がクローズアップされるようになります。

厳密に言うと、たとえ強制・強要があったとしても、最終的に決意するのは本人ですし、信仰的な立場からいうと他人の責任にするべきではないのですが、なかなかそうはいきません。まして社会通念としては、強制・強要があれば非難の対象となっても仕方がないでしょう。

さらに、本人が納得していても、他の家族との間でトラブルになるということもあり得ます。

私の経験上でいえば、どうも新宗教の教団関係者というのは、目先の結果に一喜一憂して、それが先々にどういう結果をもたらせるかということを考えていない人が多いように思います。

しかし、その人の生活に影響を与えるような財施を求めるのであれば(それが自発的なものでない限り)、最後まで責任を持たなければならないし、それを考えた上で対処しなければいけないと思うわけです。

第3に、執着をなくすことがポイントであれば、実際に財施をしたりさせたりしなくても、本人の心が変わりさえすればいいではないかという考え方があります。リスクの大きい財施の強要などする必要はないとなるわけです。私もどちらかというと、こういう傾向があります。

しかし、これは非常に観念的な考え方です。ポイントは「考え方」ではなく「心の状態」にあるわけで、「執着を持たないようにする」といっても、やはり財施とか、何らかの行を伴わなないのに、簡単に心の状態は変わるなどということはありません。

本来、正しい行為と正しい理論の両方があることが望ましいことは言うまでもありません。しかし、正しい理論があって行為がないというのと、誤った理論であっても正しい行為があるというのでは、後者のほうが、とりあえずの善い結果につながりやすいものです。

先々に禍根を残すおそれが高いこともまた事実なのですが…。

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2004.12.21
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